愛知教育大学 飯島康之
「そんなヒマはない」とか「WWWなんて言ったって,ろくなページはない」という声を聞くことは多い。確かに,「情報発信の自由化」は情報の質的分散を生む。くだらない情報がいかに多いかを目の当たりにすることになるのかもしれない。
しかし,たとえば本屋を考えてみよう。近所の本屋でも,週刊誌程度は揃う。しかし,ちょっと専門的なものを見てみたいと思ったら,「ない」。だからそういうときは(実物を見たければ)大きな本屋に行くしかない。大きな本屋で闇雲に探せば,「関係のない本」ばかりだ。自分の関心のあるものなんて,1%もあるだろうか。そしてまた,本屋では「分類・整理」してある。(いい本屋に行くというのは,そういう「分類・整理」に対して対価を払っているようなものである。)インターネット上での単なる「覗き」はいわば古本市のようなもので,玉石混淆な状態をそのまま見ているんだから,「くだらなく」見えるのが当然だ。
だが,そういう「落書きの場所」なんだろうか。
実は,「ヒマがないから」,「時間が欲しいから」,そして,むしろ「仕事で」情報化は急激な勢いで進んでいるのである。
たとえば,どうして企業は「イントラネット」にやっきになるのか。
それをしないと生き残れないからである。また,人的資産を有効に生かすための重要かつ実現可能な方法だからである。
我々の身近な場所でも,情報爆発に伴って,情報化が不可欠な場所は決して少なくない。
「子どもの減少」の中で,我々は「リストラの嵐」の中にいる。教育学部は大幅な学生定員削減があり,また附属学校は「エリート養成学校ではないか」という誤解の下で,その存在意義を問われたりしている。実は我々は,そんなに「のんき」なところにはいない。この大学(愛知教育大学)だって,今後どうなるか分からないような「あやうい」状況なのだ。
「数学教育研究」が生き残れるのかどうかだって,そういう意味ではあやしいのかもしれない。たとえば,「数学」のリストラがあったとき,「数学教育」に人材が流れてくる可能性はかなりある。「数学教育は,数学の片手間にできる程度の仕事」というような認識がもしもあって,本当に片手間で済まされてしまい(数学教育研究としての仕事をしていただけず),若手の研究者の職場が失われれば,実質的に,(大学での)数学教育研究はなくなっていくだろう。
数学教育研究とは何かを明らかにし,その存在価値を示すとともに,独自の人材が必要なこと,あるいは,数学教育研究者であれば,こういう世界の中での貢献をしてほしいということを明確に示すことが,この「サバイバル時代」では,不可欠なことなのである。