- コンピュータとのお付き合い -
愛知教育大学 数学教室 飯島康之
ところで,「自分のコンピュータ」は,自分で選択して買うのが普通である。しかし,教育用コンピュータ
などは,自分の選択の余地がないことが普通である。まして,転勤などで,今までの学校とは違った機器が
設置されていることも少なくない。
「○○とハサミは使いよう」
などという言葉があるが,「道具」についてはすべて一緒だ。コンピュータも,すべて,それなりの使い方がある。
最新型のコンピュータでないとできないこともある。しかし,10年前のコンピュータでも十分できることもある。
特に,それしか使えるものがないときには,「それでも有効な使い方」が,今での意味があるのならば,
眠らせておくことはないだろう。
最初は清書マシンである。たとえば,いくつかの書類を「きれい」に書くための道具。この段階だと,学習の投資の方がずっと大きく,あまり投資効果はないと言えるだろう。
次は,「編集」マシンである。論文や,翻訳文書の修正等に使いはじめると,「紙と鉛筆」のときの「書き直し」作業がばかばかしくなる。
次は,「テンプレート集」であろう。前の文書をちょっと直す。そのときに,前の文書をそのまま使うと,かなり便利。(私自身は,そういう御利益をあまり感じたことはないが。)
データが数MBになってくると,「保管庫」としての性格が強くなってくる。「紙」での保管は,場所を取る。それが,数MBだったら,フロッピィ数枚で済む。このあたりから,「自分のデータの保管庫」としての側面が出てくる。
データは溜まることはあっても,減ることはほとんどない。特に,自分自身が作ったデータはそうである。どのフロッピィにしまっただろうかなどと思うようになったら,データの保管庫として,ハードディスクが不可欠になった。この段階に到達すると,もう,「紙」には戻れない。「検索機能」のレベルと,「保管」のためのコスト,そして,「紙」の場合,劣化したり,ホコリが溜まったりすることを考えると,もう,「紙」には戻れない。
逆に言えば,そういうような「蓄積性」がないことに対しては,別にワープロを使う必要はない。個性的な字で書くことの方が意味があったりするのだから。
一般論としては,
まず,第一に,我々自身のコミュニケーションが盛んになる。実際,我々は限られた時空間の中でしか生活できない。基本的に,「職場」とか,「生活空間」をともにする人々とのコミュニケーションに限定されるのだ。そういう束縛がなくなるというだけでも,大きな可能性が広がってくる。
第二に,システムを補完する要因として,「人」の存在を当てにすることが可能になる。
こういう精神は,「人間関係」の在り方そのものも変えていく。つまり,みんなが,自分の得意なところで,少しずつ貢献することによって,総体としてのいいものを作ろうという方向である。そういう価値観は,資本主義的な世界とも,共産主義的な世界とも違う。そもそも,「モノ」を中心とする世界ではない。「モノ」を中心とする世界は,多くの場合,「所有」という概念で,いろいろなことを規定することができるが,そうでない部分が非常に大きい。
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自分の仕事を支えるための「単体」
ワープロのように,「文章を書く作業」はかなり多くの人に共通する仕事だが,それ以外にも,「定型的な仕事をするための環境」として,コンピュータを使うことは少なくない。しかし,どういうものが必要かは,人によって,かなり異なる。
そのような,「仕事をするための道具」として使うときに,一つの段階は,一つのシステムを,「単体」として使う使い方だと思う。Windows3.1までのパソコンはほとんどそうであったし,また,WIndows95以降でも,そういう使い方もまだまだ結構ある。
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シングルタスク/マルチタスク
ここでの表現は,「タスク」ではなく,「マルチウィンドウかどうか」ということかもしれない。
上記のような,「仕事のための単体」としての道具を考える場合にも,「一つの仕事をするためのDOSアプリ的な道具」と,「いくつかの仕事を協調させながら進めていくWindowsアプリ的な道具」はかなり違う。そういうことを表現したかったのだ。
具体的には,たとえば,二つのソフトを並列して使うときに,一方のソフトで取得したデータを「クリップボード」を経由して,別のソフトに写し,それを処理する,というようなことがよくある。
そういう環境と,そうでない環境では,結構仕事の仕方が違ったりする。しかし,「個人で仕事をするための道具」という意味では変わらない。
ということでしょうか。
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数学の道具
「電子計算機」というくらいで,いろいろな計算をしてくれる。しかし,ただ計算をしてくれるので,「楽」になるというだけではない。それによって,我々が解くことができる数学の世界が変わったり,また,「問題」として感じるものが変わったりする。
それらの総体として,「数学」自身がどう変わったのかが本当は問題なのである。
詳しいことはまた,どこかで書くことにしても,
理論中心で,具体性が乏しかった数学
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数学教育の実践の道具
数学の道具が変わるということは,「研究者にとっての道具」だけが変わるわけではない。より多くの人々にとっての数学の道具が変わるということであり,多くの人にとっての「数学自体」が変わるということでもある。
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数学教育の研究の道具
しかし,より積極的に考えれば,
このようなスタンスで取り組む場合,コンピュータとは,間違いなく,数学教育研究にとって,不可欠な道具なのである。
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情報化を進めるための「システム」および,その端末として
上記に述べてきたような意味での道具とは,「個人のための道具」と言ってもいいかもしれない。ところが,96年あたりから急速に普及していた「ネットワーク」の端末としてのコンピュータの使い方は,このような使い方とは根本的に違う。だからこそ,また影響も大きい。
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コンピュータがつながると人がつながる
当たり前と言えば,当たり前のことなのだが,ネットワークコンピュータの最大の利点は,「人のネットワーク」である。
もちろん,コンピュータがつながることによって,自分の目の前の機器以外のリソースを使えるというのは,それ自身,意味がある。しかし,逆に,それだけだったら,それほど意味はない。というのも,自分のコンピュータに大きなハードディスクを接続すれば,済んでしまうようなことでもあるからだ。
「コンピュータがつながると,人がつながる」
一見,「だから何なんだ」と思えることだが,このことは,とても大きな意味を持っている。
単体としてのコンピュータの使い方では,「コンピュータと自分」の世界である。
基本的に,「自分のことは自分でする」世界である。あるいは,「自分がすることの中の,定型的な部分を代替して行うものとしてのコンピュータ」である。
ところが,一つのものを,多くの人で共有し,生成するということになると,たとえば,
「ミスがあったら,指摘してね/しよう」
ということが可能になる。多少のミスがあっても,ユーザーがそれを直していこうというシステムでもある。そうでない選択肢としては,「ミスがあるかどうかをチェックするシステムの構築」のように,かなりややこしい部分を,そのままコンピュータにやらせようというものだ。しかし,そういう曖昧なことは,非常に難しい。そういう「人間的」なややこしい部分は,「人間」自身のいい面をうまく生かす形で吸収すると同時に,人間が本来持っているいいものを,より引き出していこうということが,ネットワーク的な使い方なのではないだろうか。
そのような,今までの価値観とは違った価値観に基づく,新しい世界が生成されているところに,ネットワークの新しさがある。もちろん,ある程度は,仕掛けとしてのネットワークがないときにも,成立していた部分であろう。しかし,仕掛けとしてのネットワークがあることによって,非常にグローバルな次元で,様々なことが変化しつつあるところに,大きな意味があると思うし,「コンピュータ」の「道具性」を考える場合にも,「単体」としてのコンピュータと,「ネットワークの端末」としてのコンピュータは,全く役割が違うと思うのである。
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ネットワーク環境による情報化革命の可能性
「革命」などという表現を使うと,あまり穏やかではないのだが,産業革命以来の,大きな変革があるのではないかと,個人的には思っている。
つまり,ネットワークによって,「個人」と「個人」が結び付けられ,個人のポテンシャルが高められる中で,「個人」でできることが大きく変わるのである。それに付随して,様々なことが大きく変化しうるのではないだろうか。
具体的の変化の様相は,立場によって,様々に異なるだろうが,ここでは,いくつかのキーワードで考えてみたい。
[「個人」の復権]
[「新たな組み換え」に開かれていること]
[ボランタリー]
[「多様」な観点]
[「共有」あるいは,Public]
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「個人」の復権
たとえば,大上段に振りかぶれば,産業革命以来の社会像の変革として捉えることもできるだろう。大量生産に象徴される工業化社会が成立したわけだが,そのためには,「資本」が不可欠となった。そして,企業や国家に象徴される「組織」が不可欠になった。多くの場合,個人は,何らかの組織の一員としての役割を担って,何らかの仕事をするケースが多くなったのである。
ネットワークの中での情報には,「組織」としてのものももちろんある。しかし,概して,「組織」としてという側面が強くなればなるほど,形式的なものが多いのではないだろうか。ネットワークの特徴の一つは,インターラクティビィティである。提供されている情報に対して,
「こういうことはどうでしょうか」
というメッセージが届けられたとき,即座に対応し,新たな判断や行動が取れることが不可欠である。しかし,「会社としての判断を上司に委ねます」というようなことでは,どうにもならないのである。
それに対して,「個人」や,それに近い小さなシステムが,情報発信をしている場合そのすべてを一人の人が握っているため,行動が速い。また,責任も明確である。(逆に,玉石混淆ではあるが。)
おそらく,「仕事」においても,同様のことが必要になるだろう。つまり,情報化を進めるためには,「組織」の「歯車」としての人間ではなく,有機的な情報収集と判断等を自主的に行える自由と権限を,一定の範囲で委任されている「個人」としての振る舞いが可能であることが必要だ。つまり,その領域に関しては,その人に,行動と判断が委ねられていると同時に,その責任を負うようなシステムである。
ボランタリー
このような面は,「仕事」に限るわけではない。「仕事」は,基本的に,経済的なシステムの中に組み込まれているものだが,金銭的な報酬を目当てにしているわけではない,より「ボランタリー」なものを,より自由な形でより容易に実現可能ということがある。
「多様」な観点
大量生産の歯車には,均質のものを数多く必要とする。しかし,情報の世界では,同じ情報を発信する人が,複数存在することは,ほとんど意味がない。「多様」な観点から,いろいろなコミュニケーションが成立し,新しいものが生成されるところに意味がある。
しかも,多くの場合,その関係は,従来の「縦の関係」ではなく,よりフラットな,「横の関係」である。立場の違いこそあれ,対等な関係である。