「道具」としてのコンピュータ

 - コンピュータとのお付き合い -

愛知教育大学 数学教室 飯島康之




はじめに

コンピュータは,「道具」である。「何のために使うか」というコンセプトなしには全く意味がない。 飾っておけばかっこいいかもしれないが,飾るだけのためには,かなり高価な調度品ということになる。
CPUの速度とか,搭載しているメモリとか,いろいろなことに過度に敏感な人がいる。もちろん,それも重要な 要素ではあるけれど,どうせ少し経てば,古臭い機器となる。新しいソフトもハードも出てくる。 重要なのは,「それは,今の自分,あるいは近未来の自分にとって必要なことか」ということだ。
必要なのであれば,「買い」である。その必要性に対しておそらくその機器は数年は十分に応えてくれる だろう。機器が少し古臭くなったかどうかは問題ではない。やりたいことに応えてくれるということが 重要なのである。
逆に,「何となくいい物を買っておく方が良さそうだから」という程度の気持ちで2倍の投資をしたとしても, 特定の目的が明確でない限りは,あまり意味がないことが多い。新しい目的が生まれる時間を待っている 時間の中での減価償却の方がずっと大きいのだ。
もっとも,最近のパソコンは,大幅な価格低下と共に,かなり品質の悪いものも混在しているらしい。 また,特に「規格」は重要である。「安物買いの銭失い」にならないような配慮は,以前よりも大きくなっているようだ。

ところで,「自分のコンピュータ」は,自分で選択して買うのが普通である。しかし,教育用コンピュータ などは,自分の選択の余地がないことが普通である。まして,転勤などで,今までの学校とは違った機器が 設置されていることも少なくない。
「○○とハサミは使いよう」
などという言葉があるが,「道具」についてはすべて一緒だ。コンピュータも,すべて,それなりの使い方がある。
最新型のコンピュータでないとできないこともある。しかし,10年前のコンピュータでも十分できることもある。
特に,それしか使えるものがないときには,「それでも有効な使い方」が,今での意味があるのならば, 眠らせておくことはないだろう。

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「紙と鉛筆」の代替物(特に,ワープロ機能)

「ワープロ程度にしか使いませんから」という人もいるが,そういう使い方が,最も基本だったし,これからだって,ある意味ではそうだと思う。
私は字が下手だ。長い時間続けて書くと,とても疲れる。そして,後になって読めない。
だから,ワープロが出たときには,勇んで使ってみた。キーボードの配列を覚えるのは大変だったけど,モノにしてまったら,紙に書くよりも,ずっと速いし,疲れない。同じ姿勢をずっとしてしまうという,弊害もあるけれど,手放せない道具になった。

最初は清書マシンである。たとえば,いくつかの書類を「きれい」に書くための道具。この段階だと,学習の投資の方がずっと大きく,あまり投資効果はないと言えるだろう。

次は,「編集」マシンである。論文や,翻訳文書の修正等に使いはじめると,「紙と鉛筆」のときの「書き直し」作業がばかばかしくなる。

次は,「テンプレート集」であろう。前の文書をちょっと直す。そのときに,前の文書をそのまま使うと,かなり便利。(私自身は,そういう御利益をあまり感じたことはないが。)

データが数MBになってくると,「保管庫」としての性格が強くなってくる。「紙」での保管は,場所を取る。それが,数MBだったら,フロッピィ数枚で済む。このあたりから,「自分のデータの保管庫」としての側面が出てくる。

データは溜まることはあっても,減ることはほとんどない。特に,自分自身が作ったデータはそうである。どのフロッピィにしまっただろうかなどと思うようになったら,データの保管庫として,ハードディスクが不可欠になった。この段階に到達すると,もう,「紙」には戻れない。「検索機能」のレベルと,「保管」のためのコスト,そして,「紙」の場合,劣化したり,ホコリが溜まったりすることを考えると,もう,「紙」には戻れない。

逆に言えば,そういうような「蓄積性」がないことに対しては,別にワープロを使う必要はない。個性的な字で書くことの方が意味があったりするのだから。
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自分の仕事を支えるための「単体」

ワープロのように,「文章を書く作業」はかなり多くの人に共通する仕事だが,それ以外にも,「定型的な仕事をするための環境」として,コンピュータを使うことは少なくない。しかし,どういうものが必要かは,人によって,かなり異なる。
そのような,「仕事をするための道具」として使うときに,一つの段階は,一つのシステムを,「単体」として使う使い方だと思う。Windows3.1までのパソコンはほとんどそうであったし,また,WIndows95以降でも,そういう使い方もまだまだ結構ある。
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シングルタスク/マルチタスク

ここでの表現は,「タスク」ではなく,「マルチウィンドウかどうか」ということかもしれない。
上記のような,「仕事のための単体」としての道具を考える場合にも,「一つの仕事をするためのDOSアプリ的な道具」と,「いくつかの仕事を協調させながら進めていくWindowsアプリ的な道具」はかなり違う。そういうことを表現したかったのだ。
具体的には,たとえば,二つのソフトを並列して使うときに,一方のソフトで取得したデータを「クリップボード」を経由して,別のソフトに写し,それを処理する,というようなことがよくある。
そういう環境と,そうでない環境では,結構仕事の仕方が違ったりする。しかし,「個人で仕事をするための道具」という意味では変わらない。

一般論としては,

ということでしょうか。
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数学の道具

「電子計算機」というくらいで,いろいろな計算をしてくれる。しかし,ただ計算をしてくれるので,「楽」になるというだけではない。それによって,我々が解くことができる数学の世界が変わったり,また,「問題」として感じるものが変わったりする。
それらの総体として,「数学」自身がどう変わったのかが本当は問題なのである。
詳しいことはまた,どこかで書くことにしても,
煩雑な計算をしないとだめだった数学
理論中心で,具体性が乏しかった数学
というイメージが大きく変わる可能性を,コンピュータがもたらしていることだけは事実だと思う。
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数学教育の実践の道具

数学の道具が変わるということは,「研究者にとっての道具」だけが変わるわけではない。より多くの人々にとっての数学の道具が変わるということであり,多くの人にとっての「数学自体」が変わるということでもある。
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数学教育の研究の道具

道具の変更によって,数学教育が変わる。
この表現の中には,かなり「受け身的」な部分が大きい。
しかし,より積極的に考えれば,
数学教育を変えるための道具を作ろう
ということもできる。そういう観点に立つならば,
こういう数学教育をしたい
ということをまず分析し,
そのためには,こういう授業・教材,そしてそれを実現するための道具が欲しい
というスタンスからの数学教育研究も成立する。
このようなスタンスで取り組む場合,コンピュータとは,間違いなく,数学教育研究にとって,不可欠な道具なのである。
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情報化を進めるための「システム」および,その端末として

上記に述べてきたような意味での道具とは,「個人のための道具」と言ってもいいかもしれない。ところが,96年あたりから急速に普及していた「ネットワーク」の端末としてのコンピュータの使い方は,このような使い方とは根本的に違う。だからこそ,また影響も大きい。
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コンピュータがつながると人がつながる

当たり前と言えば,当たり前のことなのだが,ネットワークコンピュータの最大の利点は,「人のネットワーク」である。
もちろん,コンピュータがつながることによって,自分の目の前の機器以外のリソースを使えるというのは,それ自身,意味がある。しかし,逆に,それだけだったら,それほど意味はない。というのも,自分のコンピュータに大きなハードディスクを接続すれば,済んでしまうようなことでもあるからだ。
「コンピュータがつながると,人がつながる」
一見,「だから何なんだ」と思えることだが,このことは,とても大きな意味を持っている。

まず,第一に,我々自身のコミュニケーションが盛んになる。実際,我々は限られた時空間の中でしか生活できない。基本的に,「職場」とか,「生活空間」をともにする人々とのコミュニケーションに限定されるのだ。そういう束縛がなくなるというだけでも,大きな可能性が広がってくる。

第二に,システムを補完する要因として,「人」の存在を当てにすることが可能になる。
単体としてのコンピュータの使い方では,「コンピュータと自分」の世界である。
基本的に,「自分のことは自分でする」世界である。あるいは,「自分がすることの中の,定型的な部分を代替して行うものとしてのコンピュータ」である。
ところが,一つのものを,多くの人で共有し,生成するということになると,たとえば,
「ミスがあったら,指摘してね/しよう」
ということが可能になる。多少のミスがあっても,ユーザーがそれを直していこうというシステムでもある。そうでない選択肢としては,「ミスがあるかどうかをチェックするシステムの構築」のように,かなりややこしい部分を,そのままコンピュータにやらせようというものだ。しかし,そういう曖昧なことは,非常に難しい。そういう「人間的」なややこしい部分は,「人間」自身のいい面をうまく生かす形で吸収すると同時に,人間が本来持っているいいものを,より引き出していこうということが,ネットワーク的な使い方なのではないだろうか。

こういう精神は,「人間関係」の在り方そのものも変えていく。つまり,みんなが,自分の得意なところで,少しずつ貢献することによって,総体としてのいいものを作ろうという方向である。そういう価値観は,資本主義的な世界とも,共産主義的な世界とも違う。そもそも,「モノ」を中心とする世界ではない。「モノ」を中心とする世界は,多くの場合,「所有」という概念で,いろいろなことを規定することができるが,そうでない部分が非常に大きい。
そのような,今までの価値観とは違った価値観に基づく,新しい世界が生成されているところに,ネットワークの新しさがある。もちろん,ある程度は,仕掛けとしてのネットワークがないときにも,成立していた部分であろう。しかし,仕掛けとしてのネットワークがあることによって,非常にグローバルな次元で,様々なことが変化しつつあるところに,大きな意味があると思うし,「コンピュータ」の「道具性」を考える場合にも,「単体」としてのコンピュータと,「ネットワークの端末」としてのコンピュータは,全く役割が違うと思うのである。
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ネットワーク環境による情報化革命の可能性

「革命」などという表現を使うと,あまり穏やかではないのだが,産業革命以来の,大きな変革があるのではないかと,個人的には思っている。
つまり,ネットワークによって,「個人」と「個人」が結び付けられ,個人のポテンシャルが高められる中で,「個人」でできることが大きく変わるのである。それに付随して,様々なことが大きく変化しうるのではないだろうか。
具体的の変化の様相は,立場によって,様々に異なるだろうが,ここでは,いくつかのキーワードで考えてみたい。

[「個人」の復権] [「新たな組み換え」に開かれていること] [ボランタリー] [「多様」な観点] [「共有」あるいは,Public]
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