情報処理センター96年度年報の原稿

教育研究・実践のための情報発信基地のためのインターネット利用

数学教室  飯島康之


1.はじめに
-「特定の人の道具としてのコンピュータ」から「すべての人の道具としての情報端末」へ -

1.1 Windows95の影響

95年末のWindows95の発売開始が起爆剤となって,社会の中でのコンピュータの役割は大きく変わった。特別な工夫をしなくても,ネットワーク端末として使えるようになったからである。そして,それと並行して,ネットワークに接続する人々の数が増大し,ネットワーク上のリソース,つまり様々な情報が,「繋いでみて探してみるに値する」ところまで到達したからである。
そのような様子を具体的に示す最も客観的なデータは,パソコンの販売台数であろう。96年度のパソコンの販売台数は,テレビの販売台数を上回ったらしい。テレビのほとんどが買換え需要であり,パソコンの多くは新規購入であることを考えると,単純に比較はできないが,社会の中で,それだけ「当たり前の道具」になってきたことは事実である。

1.2 研究者のコミュニケーションの道具としての普及

私自身を含めて,私の周りの変化を見ていると,「研究者同士」のコミュニケーションをするための道具としてのネットワーク利用は,すでにかなり定着している。「君はメールを使わないのか,と年上の研究仲間に言われちゃってね。あの人が使うくらいだから,僕も使わないわけにはいかなくなっちゃったよ」というような話をされる教官の方がときどきいらっしゃる。実際,どこの大学でも,ほとんどインフラとしてのネットワークは存在するので,あとは「その気になって繋ぎさえすれば使える」状況にあるからである。研究分野によって,遅速はあるものの,研究者同士の道具としてのネットワークが「当たり前の道具」になるのは,時間の問題である。

1.3 学生の利用形態の変化

そしてまた,情報処理センターで授業を行っている立場として見ていると,センターの利用のされ方が,やはり96年から大きく変わってきているのを実感する。これまでであれば,「授業」を受けている学生が,その課題に取り組むためにやってくるというのが多かったのだが,96年度からは,むしろ,情報端末として使うためにやってくる学生が多い。「授業」としては,何も受けていない,受けたことがないという学生も多い。これまでの,「特定の目的のためのコンピュータを使う学生」から,「不特定多数の学生」へとユーザー層が変わりつつあるわけだ。
このような変化は,ローカルには,情報処理センターの逼迫した状況を生んでいる。利用者数の増加は,管理的なコストの増加を招く。また,「不特定多数」になれば,トラブルの数や種類も増加するし,またモラルも低下する。一方で,それを支援する体制はボランティアである。体制の抜本的な建て直しが不可欠な情勢だ。

1.4 変化をどう受け止めるか

このことも,もちろん検討していただかなければならないのは事実だが,もっとグローバルな認識と行動の変化が一方で必要ではないかと思う。社会のネットワーク化は,予想以上のスピードで現実に進んでいる。ネットワークの向う側にいる人々の数と資源の量は日々増大している。現在においてさえ,「特定の目的でコンピュータを利用する教官」のためのコンピュータあるいはネットワークではない。我々の「当たり前の道具としての情報端末」なのである。「電話」を特別な道具と思う人はいないだろう。すでに,そういう道具なのである。そのような変化をどのように受け止め,具体的にどう行動していくか,それを具体的に検討し,行動すべき時期になってきたと思う。

2.研究者をつなぐネットワークから教育現場すべてをつなぐネットワークへ

2.0 近未来には実現する「教育現場すべてをつなぐネットワーク」

私は,数学教育学を専門にする立場として,ネットワークに関して最も関心を持っているのは,数年後には実現するであろう「教育現場すべてをつなぐネットワーク」である。現在はまだ,ほんの一部の学校しかネットワークに接続していない。県の教育センター等の機関でさえ,まだのところも多い。しかし,これらの教育現場や各種機関にネットワークが導入されるのは時間の問題である。5年後には,かなりの割合の学校にネットワークが接続されるだろう。おそらく,10年後には,ほとんどすべての学校に接続されることは想像に難くない。つまり,現在,「研究者同士の道具としての当たり前の道具」が,「教育関係者にとって当たり前の道具」になっていくのである。このことによって,我々研究者と,教育現場の方々との接点の持ち方は,大きく変化しうる可能性があるのではないだろうか。以下では,そのような可能性として考えられるものを,いくつか挙げてみたい。

2.1「時間や場所による制約」の解消

ネットワークによって解消される最も基本的なものは時間的・空間的制約である。たとえば,「電話」という道具は便利だが,お互いの時間を拘束する。授業等で研究室におらず,迷惑をかけることも多い。また,研究室にいても,作業を中断されてしまうことが大きなデメリットになってしまうこともある。かける時もそういう迷惑をかけている可能性もある。メールですべてが解消されるわけではないが,かなりの部分は解消される。
また,我々以上に,現場の先生方は時間的制約を受けている。研究会を運営しようと思っても,夕方からとか,休日に行わざるをえないのが現状である。研究活動をすることが,必然的に現場の先生方を忙しくし,しかも休暇であるべき時間の利用を前提とすることは,非常に心苦しい。しかも,メンバーの予定を揃えることが,かなり困難なことも少なくない。さらに,大学の近隣の方々でもない限り,そうしばしば会うことなどできない。そのため,遠方の方々との交流は,少なくとも私の場合,個人の方と一対一で郵便・FAX等で行うことになる。

2.2 資料の送付等のコストの解消

資料をWWWで公開している場合などは,そのURLをメールでお知らせするだけで,コピーの複製・梱包・発送等のコストが解消される。複数の方々に発送するような場合には,これはばかにならない。

2.3「地域依存」から,「研究テーマ依存」の研究グループの可能性

たとえば,上記の二つのことだけでも,大きな影響がありうる。それは,教育研究を,「地域」的なまとまりだけでなく,「研究テーマ」による広域的な研究グループを気軽に生み出せる可能性が生まれるからだ。メール等を主体とする研究集団にとっては,地域的な差異はほとんど問題にならない。時間的なズレも,コミュニケーションのための(郵送費に相当する)経費もかなり削減される。しかも,リアルタイムでやりとりができるし,メーリングリストの利用によって,不特定多数の仲間で,コミュニケーションを共有できるため,「一対一」を数多くするようなムダや,同じようなことを独立してあちこちで行うということがかなり解消されるのである。

2.4 特別な日に開催する研究会から日常的なコミュニケーションへ

また,これまでであれば,特別な日に集まる研究会として実施してきたこと,あるいは,大学院生や研究生として,特別な期間のみ通って研究してきたことが,「その気になったときに,すぐにアクセスし,コミュニケーションをする」ことが可能になってくる。今日感じた問題に対して,職員室からすぐにアクセスし,その場で調べてみたり,またいろいろな人々と議論する中で,解決したり,理解を深めていったりすることが,教員の仕事の一部になってくる可能性がある。

2.5 自分があまり自信がないことに関与することの削減

また,こんなことを言うと叱られるのかもしれないが,研究のコミュニティにいろいろな専門の方々が参加される環境が確立してくれば,自分自身があまり自信を持てないような事柄について話をしなければならないようなケースが削減されるのではなかろうか。実際,我々が研究者として責任を持って話をすることができる領域というのは,かなり限られている。たとえば私の場合,数学教育の研究者と言っても,そのすべての研究領域について詳しく知っているわけではない。「数学教育が専門なんだから」と質問されても,あまり的確ではない応答をしてしまっている可能性もかなりある。だが,そのような問い合わせがあったときに,「個人として受ける」のではなく,メーリングリスト等でそれなりの人数のコミュニティで受け止める場合には,そのことに詳しい方からの反応が得られる可能性がかなり高くなるであろう。同時に,「自分自身が詳しいことには積極的に答える」というスタンスを互いが持つことができれば,「自分自身はあまり自信が持てないような内容にはそれほど関与しなくてもすむ」ような可能性が高くなると思えるのである。

3. 私自身が現在インターネットを使って行っていること

3.1 基本的な道具 -WWWとML-

上記のような気持ちから,95年頃から,インターネットの利用を始めている。そして,ゼミの学生や院生,そして集中講義や各種講座など,いろいろな機会を使って,いろいろな方を巻き込みつつ,試行錯誤を繰り返している(次に示すhttp://www.auemath.aichi-edu.ac.jp/teacher/iijima/を参照のこと)。そのための基本的な道具として使っているのは,WWWとメールそして,メーリングリストである。
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HPの図
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WWWサーバーは,数学教室として共同で設置したものを使っている。設置のための経費は約25万であった。(利用規定が確定し,承認されれば,情報処理センターのWWWサーバーを使えるようにもなるはずである。)
また,もう一つの道具であるメーリングリストは,山梨大学の成田雅博氏が運営しているmathedu(詳しいことは,http://jizo.cer.yamanashi.ac.jp/mathedu/ml/mlann.html)を利用している。自前で用意するのは,メーラーだけである。(もっとも,メーリングリスト上に積極的に情報を流したり,返信を書くという意味での貢献はかなりしている。)

3.2 数学教育に関するコミュニティの場としてのメーリングリスト

このmatheduというメーリングリストには,約200名の人々が参加している。大学,教育センター,附属学校,一般の学校,企業など,様々な所属の方がいる。話題は多岐にわたるが,数学教育に関する研究に関するもの,実践に関するもの,研究会の連絡など,様々な意味で教育研究に関するものが多い。 前節で,「可能性」としていくつかのことを述べたが,実は,すべてmatheduの中で実感していることである。ある話題が登場したとき,読んでいる(あるいは,届く)のは200名全員であるが,その話題に関心がある数人の人が返信を書く。返信があるかどうかもすぐに分かるわけだから,まったく同じようなことを複数の人が書くということはない。逆に,「誰か書かないかな」と思いつつ,あまり返事がないようだと,「じゃあ,仕方がないから,僕が書こうか」ということになる。自分が知らないことに対して,「ねえねえ誰かこのことについて知っている情報はないかな」と尋ねるときもあれば,「こういう層の人々だったら,どう反応してくれるんだろうか」と意図を持って投げかけるときもある。200名規模の集団で,ほぼ毎日数通は届くような状況になってくると,「コミュニティ」として十分機能していることを確信している。
もっとも,数学教育関係者全体の数を考えれば,あまりに小さい数とも言えるのも事実である。まだまだほんの一握りの人「だけ」しか参加していない。だが,比率的には非常に小さくても,そしてその人数が全国に「分散」していても,コミュニティとして十分成立することが,ネットワークの利点であろう。そして,そこでの模索の中から,教育現場にネットワークが本格的に導入されたときに機能するものが生まれてくると思う。

3.3 必要に応じたリソースの形成

私自身は,Geometric Constructorというソフトの開発者であり,そのソフトに関連するサイトを構築したいという気持ちが強かった(昨年の年報参照)。サイトの充実に当たっては,自分自身が「こういうものがあったら便利だろうな」と思えるものを,逐次充実させていくということももちろん不可欠である。しかし,ネットワークの中でのやりとりを経験しながら,もう一つの面白い面があることを実感している。つまり,ネットワークの向う側には,「人間」がいるわけであり,しかも「メール」でいろいろなことを知らせてくれるのだ。情報発信システムとしてのWWWなどがあったときに,その「人間」の存在が,かなりいろいろなことを補完してくれるのである。
たとえば,Geometric Constructorに関して,これまで「紙」ベースで作ってきたいろいろな資料がある。そのすべてを一気にオンライン化するのは大変である(特に指導案)。できるところから始めるしかない。不備もいろいろなところにある。しかし,そのような不備や,必要なリソースに関しては,ユーザー自身が,教えてくれるのだ。たとえば,ある問題についてmatheduの中で議論する。Geometric Constructorを使った教材研究に関する論文を前に書いたことがありますと返信を書く。コピーして送付する代わりに,その文書をワープロからテキストファイルに変換し,WWWサーバーに掲載する。そして,「このURLにありますから,関心がある方はみてください」とmatheduの中で流す。そのような形で,「必要なときに必要なものをWWWに溜めていく」という形で,ネットワーク上のリソースが順次整備されていくのである。
そのようなリソースの整備は,自分だけが行うわけではない。ネットワークの向う側にいる人も,やはり同じようなことをしながら,向こうのWWWサーバーのリソースが,「こうしてほしいな」といういろいろな人々の気持ちを反映しつつ,蓄積されていく。まさしく,「ネットワークによって,いろいろな人々がつながった」状態なのである。そして,「自分にできることをする」というスタンスで,それほど多くのことをせずに,そして,自分が得意なことを実行することを中心にしながら,総体として,かなりいいものが実現されていくのである。

3.4 学外の方々との交流

このようなことを進めていると,自然に,学外のいろいろな方々との交流ができていく。たとえば,ある大学院の院生が提起した問題に対して,いろいろな大学の教官が議論する。事実上の「連合大学院のゼミ」が出来上がってしまっている。また,私のゼミの学生は,「週刊Math-media」という,数学の問題を掲載するコーナー(http://www.auemath.aichi-edu.ac.jp/semi/iijima/1996/media/problem.htm)を今年から運営しはじめたのだが,いろいろな反応を頂いている。解答者としてメールをくださる方もいらっしゃるが,他のサイトで同様の問題のコーナーを運営していらっしゃる方もいる。多くの方はmatheduにも参加している。どういう形でどういう問題を提出するのがいいのだろうかなど,運営者としてのノウハウを伺ったりもした。また,そのようなやりとりの中で,神戸大学のある研究室との交流が始まった。matheduでの議論の中で,私や,向こうの指導教官がいろいろ言っていたら,煩わしくなったのか,学生用のメーリングリストを作って,そっちで勝手にいろいろな意見交換をするようにまでなった。
また,WWWでいろいろなリソースを蓄積しているのは,当方のような大学の研究室だけではない。教育センターの方,附属学校の方,個人としてなさっている方など,いろいろな立場の人がいる。「その気がある」ことが,第一条件なので,地域は分散している。そういう,異文化交流を気軽にできることが,非常に楽しい。「こういう問題どうでしょうね」と誰かが投げかけたとき,「試しに今度研究授業をしてみましょうか」というような反応も,まだ数としては少ないが,実際にある。これまでであれば,本学の附属の方々に「忙しいのを承知しつつお願いする」ようなことが,かなり対象が広くなり,しかも,自分との接点だけでなく,matheduというコミュニティの中で起こっていることすべてを,参加者全員で共有し,それぞれが無理のない形で貢献しているのである。なお,だからと言って,本学の附属や地元の学校での研究授業等が無くなっているわけではない。それらの先生方自身も,matheduに参加している。そのため,「あそこで,こういうことも話題になっていましたね」と,意志の疎通がずっと便利になっているのが実際である。

4.本学における情報化を進めるために

4.1 教育研究者にとっての「当たり前の道具」としてのネットワーク

上記の様子からお気づきだと思うが,私自身が現在していることに関して,ネットワークに関する特別な知識や技能はほとんどない。もちろん,私自身があるソフトを開発し,それに関する情報発信が多いという意味では,特別な部分もあるかもしれないが,むしろ教育研究者としてネットワーク上で行動している側面の方が大きいと思う。つまり,言い方を変えれば,現在はネットワークをあまり使っていない方でも,上記のような教育研究との接点の持ち方に関しては関心がある方であれば,今後ネットワークが重要な道具になる可能性は非常に高いのである。しかも,そのような潜在的な可能性がある人々というのは,大学の研究者としての教官だけに限るわけではない。大学院生や学部の学生にとっても重要な道具になる可能性は十分にある。そしてまた,個人的に期待しているのは,附属学校の教官の方々である。附属の方々は,現在でも,地域の教育研究・実践の中核的な役割を果たしている。そして,定期的に研究発表を続けている。たとえば,それをそのままネットワーク上に拡張するだけでも,かなりの役割を果たすことができるであろう。そして,愛知県あるいは東海地区という地域だけを射程にするのではなく,より多くの方々にとっての存在をアピールできるに違いない。そのような状態を想定すると,ネットワークは,多くの教育研究者にとって,「当たり前の道具」として定着するのは,それほど先の話ではないと思うのは,私だけだろうか。

4.2 教育関係のプロジェクトに必須の道具としてのネットワーク

特に,我々研究者にとっては,何らかの教育的プロジェクトを企画する際には,ネットワークは必須の道具として機能していくと思う。教育的プロジェクトでは,単なる理論的な考察だけではなく,具体的な実践との関わりが不可欠だからである。
実際,教育問題の多くは非常に難しい。たとえば,「いじめ問題」に対する抜本的で完全な答えを理論的に生成することなどできない。比喩的に言えば,数学の問題およびその解決とはまったく違う。数学の問題であれば(どんなに難しい問題であれ,解決された問題に関しては),きちんと定式化し(そのために,新しい理論を構築する場合もある),抽象的な議論の中で,証明することが可能だ。そして,それは,応用の場面にもそのまま通用する。しかし,「いじめ問題」に関して,そのような性格の理論的研究,つまりそれを読めば実践も完全に遂行できるというような研究を単独で行うことはできない(と私は思う)。このことは,学問的な成果として,教育学や教科教育学などの成果を評価しにくくしている面を生んでいる。
だが,教育学等が実践科学的な面も持ち合わせており,ある問題に対する「解決」を与えるというよりも,理論的な考察や様々なリソース等の提供により,よりよい実践のための手掛かりを与えることにも重要性があること,そして,より具体的なことに関して,様々な人々が関わっており,そのような人的なネットワーク形成も重要である。換言すれば,そのようなことを目指して,教育的プロジェクトの多くは行われるのではないだろうか。このように考えると,たとえばインターネットの利用も,単に「出来上がった研究成果を公表する」ためのものとしてだけでなく,その途上において,様々な情報を提供していただいたり,それに関して議論をしたりするような,「フォーラムの形成」としての役割をかなり果たすことができるのではないかと思う。

4.3 物的資源・人的資源の整備

上記のようなことを可能にしていくためには,一つには,物的資源と人的資源を整えていくことが不可欠であることは言うまでもない。物的資源のインフラ的な部分に関しては,現状でもかなり整っている部分もあるが,不足している部分もまだかなりある(個人的には,附属学校の教官のためのインフラ整備は不可欠だと思っている。)。一方,人的資源に関しては,非常に心もとないのが現実である。「特定の人が特定の目的のために使うネットワーク」であれば,特定の利用者が,ボランティア的に管理するのも仕方がないが,「不特定多数の人々が,日常的に不可欠の道具として使うネットワーク」であれば,責任を持って管理する体制が不可欠である。最低でも,専任の技官は必要だ。しかし,そのような必要性を学内的にきちんと認識し,対処するためのシステムをきちんと持っているかどうか,またそのシステムがきちんと働き,あるべき方向に向かっているのかどうか,まだまだ難しい面の方が多いように感じている。

4.4 負担と責任の分散化

しかしまた,そのような物的資源・(専任の確保という意味での)人的資源が確保できたとしても,それらは「前提」としての存在であって,それらがあれば十分というわけではないのもまた事実である。逆に,それらの専任の人々にすべてを任せるというような体制を前提とするのであれば,10人程度の人材が必要になるかもしれない。たとえ専任を確保したとしても,その人に「任せるべき」部分と,本学のシステム全体で吸収し,支援すべき部分は明確に区別する必要がある。そして,後者のためのシステムをどのようにして確立していくのかが,本学の情報化を進めていくために,不可欠なもう一つの要素ではないかと思う。つまり,負担と責任の分散化である。
このような表現をすると,私自身もときどき口にしてしまう,一つの決まり文句を思い出す。つまり,「私は忙しいので,勘弁してください(お手伝いできません)」という言葉である。従来のように,ある種の定型的な仕事を誰に割り振るかことを原則的に考えると,負担の公平な分配という意味で,この決まり文句が妥当な言葉であることが多い。しかし,少なくとも,情報化に関わることに関しては,如何にして,そういうスタンスのものでなくすか,そして,その人にとって,それほど負担を感じずに,自主的に参加可能なシステムと価値観を形成するかということが不可欠だと思う。もし,それが通用しないのであれば,現在のシステムは破綻させなければならない。少数のボランティア的な教官に頼るような状況は,その教官の「教官」としての仕事を破綻させてしまうからである。

4.5 情報化のための「仕掛け」作り

上記のようなことを書くと,「我々はコンピュータのことについて詳しくないのだから,詳しい人がすべきことではないか」という反論もあるような気がする。確かに,非常に専門的な知識と技能を持っていないとできないこともある。そういうことは,そういうノウハウを持った特別な方にお願いするしかない。しかし,これまで見てきたように,すでに,ネットワーク自身,そういう特定の人々だけが使うものではない。すべての人にとって,「当たり前の道具」なのである。ワープロと同じ程度の道具なのである。そして,少なくとも,教育研究・実践に関わりを持っている人にとっては,今後,ますます重要性を増していくような道具なのである。そういう道具を使うに当たって必要なノウハウの共有や,それらを使って様々なリソースを適切に提供していくためのノウハウの共有,あるいは仕事の進め方等を試験的に実施してみるべき時期になってきたということなのではないだろうか。
それを進めるに当たって,物的資産や人的資産は不可欠だが,同時に,情報化のための「仕掛け」を作り,それなりのニーズとノウハウと「その気」を持っている人々が,自主的にいろいろなことを進めていけるようにするための環境整備が必要なのではないかと思っている。それに関連すると思われることを,いくつか列挙したい。

(1)情報公開と共有,そのための仕組みの明示

第一は,情報の公開である。たとえば,ネットワークを接続したいと思ったとする。しかし,どうやったらいいか分からない。「誰に聞いたらいいだろう」ということから,特定の人に「電話」をする。当人にとっては,問題解決の手段になるが,その「特定」の人は,毎回同様なことで,負担を強いられる。そのような負担を解消すると同時に,どういうことをするには,どういう手続きをしたらいいのか,そもそも,どういうことならばできるのかなどを我々が共有可能にするためには,様々な情報を共有することが出発点である。
同時に,誰がどういうことをどう行っているのかという仕組みを(できる範囲で)明示することも,システムの存在を知り,学内的な負担を知り,また必要なシステムを生成するためにも必要ではないかと思う。

(2)ユーザーグループの形成

ところで,その情報は「誰」が書くのか。今までであれば,結局,「電話を受けていた人」が書くしかなかった。つまり,「自分の時間を作るために,新しい仕事を作り,また自分の時間を削減している」状態である。このような状態が続くのは,いろいろな意味で問題である。一つは,「電話を受ける人」が大量に文書を書かなければならないという問題である。しかし,問題はそれだけではない。その「電話を受ける人」は,自分の立場でしか文書を書けない。そのため,「この解説文書はよく分からない」などの誹りまで受けてしまうことがあるからだ。たとえば,ネットワークについて詳しい人は,詳しい人にとって何が重要かはすぐに分かる。しかし,初心者にとって,何が見落としやすいのかまでは分からない。だが,そこまで配慮せよというのは,ムシの良すぎる要求である。自分にとって必要なことは,同じような立場の人々の集合体で話し合うのが一番である。つまり,それぞれの内容に則したユーザーグループを形成すること,そして,そのユーザーグループが,自主的に様々な文書を公開することが望ましい。
例えば,WWWサーバーの自主的な構築には,一体どうしたらいいのかという疑問があるとする。WWWサーバーを構築するための機器やOS,サーバーソフトは多様である。それに答えるために,いろいろな情報を,「電話を受けた人」がするのは,実質的にできないことと言える。しかし,実は現在でも,学内にはWWWサーバーが何種類も稼働している。どの教室のサーバーはどういう構成で稼働しているのかという情報が公開されているだけで,関心のあるところに質問することができるだろう。また,最低限の文書を,「それぞれの担当者」が少しずつ書くだけで,全体として,非常に優れた資料になるだろう。そういうことを進めていく上では,現在のような,「学内の利用者-電話を受ける特定の人」という関係でなく,ユーザーグループを形成し,その中での自主的な情報交換等がスムーズに行くようにすることが必要なのではないだろうか。

(3)Mailing List,Newsgroup,掲示板などの利用

しかし,そのようなユーザーグループは,そう簡単にできるとは限らない。形成しやすいようにするための「仕掛け」が不可欠である。実際,そのようなグループの形成も念頭に置いて,「キャンパスネットワーク運営委員会」では,その下部組織として,専門部会を作ったが,今年度は,そのための根回しが中心で,部会自体は1度しか開けなかった。しかも,そのようなユーザーグループがうまく稼働するには,委員会のように,時間を決めて集まるのではなく,必要に応じて,そして,互いの負担にならないような形で,情報交換等をできるようにすることが必要である。それらを円滑に進めるためには,たとえば,学内向けのMailing ListやNews Groupあるいは(Web上の)掲示板等を気楽に使えるようにしていくことが必要であろう。

4.6 情報処理センターの役割等

私自身は,上記のような情報化への流れの中では,情報処理センターの役割を,少しずつ変えていく必要があると思う。第一には,「すべての学内の構成員が当たり前の道具として使うネットワーク」のための管理・運営を担っているということを,学内的に一層認識されるべきだと思う。そして,今後ますますニーズが多くなり,仕事が多岐に渡る可能性があるのだから,かなりの部分を学内の他の方々にできるだけ分散化する必要があると思う。逆に,ネットワークの基幹部分の管理・運営や,情報化のための仕掛け作りの部分に力点を移動すべきではないかと思う。そして,そのような部分だけであっても,ボランティアベースで支えるのは大変であることを,認識していただく必要があると思う。

5.おわりに

96年も,ネットワーク上の様々な変化があった一年だったが,97年もこの傾向は続くであろう。同時に,そろそろ,このような取り組みは,「特別なこと」ではないということを,より多くの人々が認識する必要があると思う。教育研究・実践にとって当たり前の道具として扱えるようにしていくための学内的な準備を始めり,整っていく1年になればと思っている次第である。

*:飯島(1996)『「持つ」知識から「使ってもらう」知識・「共有する」知識へ -インターネットによる情報発信のために - 』,情報処理センター年報,vol.1,pp.18-23