数学教育における「幾何」に関する研究

飯島康之

        1.研究意図

          現在、幾何は、「幾何教育の混迷」という言
        葉に代表されるように、数学科における存立を
        問われるに到っている。しかし、幾何が価値の
        ないものとして否定されているというよりはむ
        しろ、どのような価値を見出すべきかが問われ
        ていると言うべきなのである。本研究ではDewey
        の探究に手掛かりを求め、「幾何」の再考をす
        るための基礎研究を目指すものである。
          長い間、幾何は「厳密な数学的推論が保証さ
        れている数少ない領域」としての評価を得てい
        た。そのため、厳密な数学的推論を幾何で学ぶ
        ことが非常に価値を持っていた。しかし、単純
        な形式陶冶が否定され、更に数学全体で厳密な
        数学的推論が可能となった今日では、数学的推
        論を学ぶことに幾何の意義が正当化されるとは
        いえない。  
          そこで、数学教育における「幾何」の在り方
        を考察するために、学校教育で扱う範囲を越え
        、広く数学の中において幾何学がどのような位
        置を獲得しているのか、また自然科学の中でど
        のような位置を獲得しているのか、更にそれら
        を可能にする幾何学の論理学的特性を考察する
        ことが重要となる。文化財としての幾何学は、
        教育における「幾何」を考察するための重要な
        源であり、具体的な教材を提供するだけでなく
        、それがどのような役割を果たしているかとい
        う視点からの考察を通して、上記の問題の解決
        が示唆されうるからである。        
          そこで本研究では、幾何学の持つ論理学的特
        性とその応用可能性の発展を歴史的に素描する
        中から、両者が相互関連を持ちつつ発展してい
        ることを示し、更に数学や自然科学に対して、
        幾何学はどのような役割を果たしているのかを
        探究の観点から明らかにする。そして、それら
        を基にしながら、数学教育における「幾何」の
        在り方を再考するとともに、より具体的に研究
        を進めていくための枠組みを示す。

        2.論文の構成

        I.数学の論理学的特性の発展
                  −幾何学を中心に−
            ・  ギリシャ数学と証明
            ・  Descartes と普遍数学
            ・  Erlangen Programと幾何学の普遍化
            ・  非Euclid幾何学と公理的方法
            ・  Bourbakiと数学的構造
        II.数学の応用可能性の発展
              −幾何学の所産としての数学的空間の応
                用可能性(物理学からの例を中心に) −
            ・  ギリシャ数学と直接的応用
            ・  「世界の幾何学化」とGalilei 
            ・  数学的モデルとNewton
            ・  新たな数学的空間の形成と力学の発展
            ・  新しい数学的モデルと20世紀物理学
        III.  数学と探究の論理
              −「幾何」再考へ向けて−
            ・  数学的構造の特性
            ・  数学的構造の認識論的問題
            ・  探究の論理による一解決の試み
            ・  探究の論理の「幾何」への導入
            ・  数学における探究の論理の役割
            ・  探究の立場から見た数学科における
                「幾何」の位置
        終章  −数学教育における「幾何」−
            ・  数学教育における「幾何」の位置
            ・  「幾何」への具体的アプローチ
                −今後の課題のために−  

        3.論文の要旨

          I.論理学的に見た数学の特徴は厳密性や抽
        象性のみで捉えきれるものでなく、幾何の価値
        も、推論の厳密性のみにあるわけではない。本
        章においては、数学の論理学的特性が発展する
        に伴い、何が生じたのかを歴史的に概観した。
          ギリシャでは証明が確立されたが、対象の厳
        密な相違を峻別することに主眼があり、基本的
        形式の統一には到らなかった。元々、方法にお
        いては幾何学と代数学は相互作用を及ぼし合う
        存在であり、それはDescartes による幾何学の
        数論への系列化により、明確に表現されるとと
        もに、数学の普遍的性格が示された。群や不変
        式と幾何学の関係が明確になると幾何学的方法
        は数学内外の多くの場面に浸透するようになっ
        た。また、非Euclid幾何学の研究から生じた新
        しい公理的方法は、公理の持つ生産的な役割を
        示し、更により普遍的な数学的構造が確立され
        ると、それらの相互作用が注目されるようにな
        った。これらの歴史的展開を述べる中で、次の
        ことが明らかとなった。数学は再体系化を繰り
        返す中でより普遍的な体系へと発展し、以前方
        法として使われていたものが、ある普遍的体系
        の適用として顕現化される。幾何学は普遍的体
        系として整備されるとともに、他の普遍的体系
        の適用を受け、多くの場面に適用可能な存在な
        のである。そして、このことを可能にするのが
        、数学の論理学的特性なのである。

          II. 数学がより普遍的になるにつれ、様々な
        場面への適用可能性が高まったが、同時に応用
        する側からみても、応用の仕方が発展し、応用
        可能性が増大していった。本章は物理学への応
        用に例をとり、その様子を概観する。
          ギリシャ前後においては幾何学の応用は現実
        の空間に関する問題への適用であり、学問的に
        は軽視されていた。Galilei にいたって、より
        よい実験仮説、実験方法の発見と確証のために
        数学的推論が使われるようになった。さらに
        Newtonに到ってモデルとして数学的体系が使わ
        れるようになるとともに、この数学的モデルに
        関する推論をすることの意義が認識され、数学
        的モデルに関する考察が物理学的に非常に重要
        な位置を占めるようになった。それとともに、
        数学的モデルとしての数学的空間が新たに形成
        された。更に、20世紀物理学においては物理的
        実在、観測事実、数学的形式の三者の位置が明
        確になり、数学的モデルの修正・変更が重要に
        なっている。以上の概観により次のことが明ら
        かになった。応用が直接的なものから間接的な
        ものへと発展するに伴い、数学的モデルの適用
        である、という側面が強くなった。数学的モデ
        ルに関する推論は、仮説や方法を発見したり、
        観測事実の解釈し、更にそれらにある保証を与
        えるものとして使われるようになった。

          III.数学が如何に形式的に整備されていても
        それが現実に応用可能になるためには、応用す
        る際の探究の在り方が問題となり、またそのよ
        うな際に使われるものとして数学を定式化する
        ことが重要となる。本章は探究の観点からこの
        二つの問題を考えるとともに、数学の中におけ
        る幾何学の位置、および自然科学にとっての幾
        何学の位置について考察し、さらに数学科にお
        ける「幾何」の位置について考察する。
          そのためI,II章の考察に基づき、数学的構造
        により示唆される、数学の持つ論理学的価値を
        まとめ、それらを形式、応用両面について的確
        に扱うためにはDewey による探究の観点が重要
        であることを考察した。更に現代的な幾何学か
        らの例を挙げ、実在に関する探究と数学的探究
        の両者に対してどのような位置を持つものかを
        考察した。その結果、実在に関する探究におい
        ては、数学の適用とは実在に対する秩序づけで
        あり、探究者自らが世界の変革を行う能動的な
        行為であり、幾何学は数学的空間や幾何学的概
        念を媒介として数学的モデルを提供することが
        わかった。また数学的探究における幾何学とは
        いくつもの数学的構造が関与する重要な問題を
        提供し、数学的構造の相互作用をもたらすと共
        に、数学に対してある種の実在性を与え、多様
        化する数学にあるまとまりを与えようとするも
        のであることがわかった。このようにして、幾
        何学の独自性は探究という観点から一層明らか
        にされ、それに基づいて、数学教育における「
        幾何」とは、1)次第に普遍的な体系へと発展す
        る2)数学一般に対してある種の実在性を与え、
        多くの数学的構造が関与する問題を提示する3)
        実在に関する探究に対して、素朴な数学的モデ
        ルを提供する、という三つの側面からその特徴
        を捉えることができることを示した。

          終章. 本章ではIII 章で考察した「幾何」に
        具体的にアプローチしていくための枠組みにつ
        いて考察する。すなわち、1)に対して、普遍的
        な体系を生み出すものとしての数学的推論と「
        幾何」の関わりあい、また2)に対して、数学的
        構造の形成とそれらの相互作用を生む母胎とし
        ての「幾何」、更に3)に対して、数学的モデル
        化と「幾何」の関わりあいを取り上げた。

        4.今後の課題

          終章で述べた1)2)3)についてさらに詳しく研
        究することにより、探究の観点からの「幾何」
        の重要性をより具体的に示すこと。それを基に
        して、「幾何」への具体的なアプローチを明確
        にしていくこと。また、それらを手掛かりにし
        て、数学教育における探究の意味を明確にして
        いくこと。

        5.主要参考文献

        Bachelard,G.『新しい科学的精神』  1976
        Bochner,S.『科学史における数学』  1970
        Cassirer,E. 『実体概念と関数概念』1979
        Dewey,J. "Logic:The Theory of Inquiry"1929
        Freudenthal,H."Mathematics as an Education
        -al Task" 1973