数学教育研究・実践の道具としてのインターネット

愛知教育大学 飯島 康之

イプシロン,40(1998)

0.はじめに

 本文は,1998.12.13に愛知教育大学数学教育学会で行った講演に若干の修正を加えたものである。口語的な表現が多いが, ご了承いただきたい。
・・・
 今回, 「インターネット」関連で話をしていただけないかという依頼だった。正直言って困った。ネットワークでは, ネットワークの「向こう側にいる人間」の存在があって, そういう人との結びつきができる。そしてそれによって, 今まではできなかったことができる。そして, そこでの「インターラクティブなやりとり」に魅力がある。1時間とか2時間の「おはなし」の中で, そういう「ネットワークの向こう側にいる人」の実感は難しい。困ったというのは, そういう理由である。
 しかし, だからと言って安易に断るべきことでもない。第一に, インターネットは急速に学校に導入されつつある。それで何ができるのか。どう変わる可能性があるのか等は, 先生方にとって大きな関心がある話題のはずだ。そして, 私自身も関心がある。
 第二に, 私自身, インターネットとはいろいろな接点がある。自分自身の研究・実践にかんしてもそうである。また, 学内では情報処理センターの仕事や, ネットワーク運営委員会/管理委員会の仕事も担当している。学内の情報化をどう進めるかという, 非常に難しい問題と実践に関わっているのも事実である。また, 愛知県は,9・10年度のインターネット利用推進に関する地域指定を文部省から受けた。現在は教育センターと6校が関わっているのだが, これにも関わっている。いろいろな「現場」を肌で知っているのも事実である。
 そして第三に, 私のこれまでの研究の成果の一つであるソフト,Geometric Constructorも,Windows版を開発し, ネットワーク対応を進めている。そこでの可能性に関しても, できれば, こういう機会に触れておきたい。
 このような, いろいろなことから, いろいろな「現実」と「可能性」について, 日頃感じていることなどと交えながら, まとめてさせていただくチャンスと思うことにした。  「体験したことのない方にはよく分からない」部分も多いかもしれない。また, 「自分の価値観とは合わない」とお感じの方もいらっしゃるかもしれない。私からの一方通行ではなく, いろいろな疑問や意見等を投げかけていただき, 少しでも討論できればと思っている。
 なお, 今回の内容を検討しているときに, 玉置先生(小牧市桃陵中)から, 「私の授業がCDになりました」と, 面白い本を頂いた。「先生と子どもたちのためのパソコン活用術」という本である。授業そのものも面白いし, 「授業のCD」というインパクトも大きかったが, 同時に, 一般論として, いろいろなことが初心者の先生方にも分かるように書かれていることにも感心した( マイクロソフトとベネッセのPR的な側面もときどきあるが) 。今回のような, インターネット関係の話をするときには, 具体的にメールの出し方とか, そのためには, 何が必要かとか, そういうことも含めて話をすることが多いのだが, 普通の雑誌(別冊) でも, この程度の情報がきちんとしているのであれば, 今回はそういう部分はある程度「本を見てね」と割り切ることにし, 「私自身はどういう気持ちでどういうことをしているのか」を率直にまとめてみることにした。(私なりの, 具体的な話は, 「数学教育」での連載, 「インターネットで変わる数学教育」を参照いただければ幸いである。)

1.一般論

1-1.ネットワークはもうそこまで来ている

 愛知県は, これまでネットワークにはあまり熱心でなかった県の一つのようだ。しかし, 現在でも, いくつかの市ではかなり先進的な試みを進めているし,県でも, 次のようなことは決まっているようだ。
 また, 文部省としても,
というような方針を立てているようだ。このような数字を見て, 「まだまだ先」とお感じの方もいらっしゃるかもしれないが, 現実としては, 「すぐそこ」ではないだろうか。  というのも, 「単体としてのコンピュータが導入される」のとは違う。様々な可能性と同時に様々な問題も生まれる。それに対応できるような体制も整備する必要がある。そのような状況を考えたときに, 「もうすぐそこ」という感じがするのである。

1-2.インターネットの基本はメールとWWW

今更ここで紹介するほどのことではないのだが, インターネットの基本的な道具は, である。「派手さ」で言えば,WWWだろう。世界中の様々なところで, 実に様々な情報が提供されている。たとえば, 火星探査の様子を知りたいと思えば,NASA のサイトを見ればいい。巨大な図書館がやってきたようなものと言ってもいい。
 そしてまた, いろいろな人と情報交換をしたいと思えば, 電子メールを出すことができる。まさしく, ネットワークコンピュータは, 「情報端末」であり, 特に仕事で使う場合には, 「情報化社会では不可欠の道具」である。

1-3.ネットワークが入ったからと言って, 算数・数学の授業がすぐに変わるわけではない

 理科や社会などでは, ネットワークを「膨大な資料集」として使うことによって, 今までとはかなり違う授業が行える可能性がすぐに見えてくるが, そういう面では, かなり違う。( いや, 理科・社会だって, 気楽に新しい授業ができるわけではない)
 当たり前のことだが, ネットワークが入ったからといって, 授業がすぐに変わるわけではない。特に, 算数・数学の授業は, ある意味では一番変わりにくいものの代表だと思う。算数・数学では, こどもの内的な世界を構築することが不可欠だからだ。

1-4.ネットワークは「人」を結ぶ

 原点に戻って考えてみると, まず基本はネットワークは単に「コンピュータを結ぶ」のではなく, それによって, 「人を結ぶ」という点にある。結ばれることによって, 潜在的な何かを引き出せるようなものがある場合には, それが顕在化する可能性がある。特に, 我々が日常的に「やりたいけれどもできない」ことがはっきりしている場合は, その効果はてきめんである。逆に, そういうものがない場合は, 何も起こらない。それがネットワークである。

1-5.県のインターネット利用推進関係での授業から

 私が参加できたのは,3つの学校での授業である。算数・数学は関係ないのだが, 参考になる部分は多いと思うので, 少し紹介したい。

(1) 岡崎市立甲山中学校

 理科の授業を拝見した。グローブ活動(「環境のための地球学習観測プログラム」) に関する授業で, それまでの時間に, 生徒がそれぞれの観測すべき内容を観測し, ここでは, そのしくみや結果等を発表し, データをアメリカのサーバーに入力するという授業だった。

(2) 半田市立亀崎小学校

(それまでの経緯は省略するが,)5年生がトヨタの工場を見学に行くのに際して, 「調べてほしいこと」を募集し,3つの学校(弘前大学附属小学校, 富山県五福小学校・滋賀県盲学校からの質問に対して, 生徒たち自身が「記者」となって取材し, 報告し, そしてそれに対する感想メールを読んで, それに対する返事を書こうという授業だった。

(3) 名古屋聾学校

二つの授業があった。一つは,HTML 文書を作ろうという授業である。そしてもう一つは, メールの授業である。後者では, 仮想的な会社を自分たちでそれぞれ作っているのだが, その案内等を協力校である中川商業高校の生徒に発信し, その返事を見るという授業だった。
これらの授業からの感想はいろいろとあるのだが, 二つを挙げておきたい。
(1) ネットワークの向こう側の人とのやりとりにより「自分の問題」としての意識が強くなる
 たとえば, トヨタの工場に見学に行くときに, 教科書に書いてあるから調べる「ある項目」と, ○○さんに伝えたいと思って調べる「ある項目」では, かなり重みが異なるのではないだろうか。聾学校の場合でも, 「実際に向こうから返事が来る」というリアリティは, 隣にいる友達同士でのメールのやりとりとはまったく違ったインパクトがあったように思う。
 亀崎小学校の場合にも, 滋賀盲学校からメールがあったが, どちらの場合でも, 通信手段を「メール」という文字に限定していることもあって, ハンディキャップをまったく感じない。ハンディキャップのある人にとっての社会参加のために, 逆に, ハンディキャップがある人々に対する理解を深めるためにも, 重要かつ有力な手段だと実感した。
(2) リアルな問題を扱えば扱うほど, 「すべての生徒が同じことを理解する」ことの要求は難しいし, 意味がなくなる
甲山中学校での理科の授業では, 環境問題等の観点から身近な問題を扱う。たとえば, 「酸性雨」である。問題はよく分かる。しかし発表を聞いていると, 分からないことも多い。ある意味では当たり前で, 現象としての酸性雨は分かりやすくても, その仕組みや観測方法を理解するには, 通常の中学生は学習しない内容についても, 調べなければならない。
トヨタの見学でも同様である。やりとりの中で生じた疑問は, 生徒自身にとってリアルな問題である。しかし通常の社会科の授業としては, あっさりと済ませてしまう内容であろう。
「問題」としてのリアルさを選択するのか, それとも, 「基礎的な知識・技能」を選択するのかという問題がここにある。問題を選択した場合, 「問題の妥当性の理解」は, すべての生徒に要求されるだろう。しかし, そこで扱っている内容の詳しい部分に関しては, 当事者はある程度の理解を深めることが要求されるだろうが, その内容に関して, 「すべての生徒が理解すること」を要求するのは無理なのではないだろうか。そういうところにも, このような授業が普段の授業とはかなり異なった性格を持っていることが現れていると思う。

1-6.コミュニケーション+「自分にとっての問題」作り+膨大な情報源

以上のことから短絡的に結論つけるのは難しいかもしれないが, 個人的な印象では, インターネットとは, まずコミュニケーションを成立させてくれる場所だと思う。
学校という場所も, たしかにコミュニケーションの場所である。職場もそうである。しかし, 「自分の関心に合った仲間がそこにいる」とは限らない。電子メールやメーリングリストは, 「自分達にとってできる範囲で, そして相手にできるだけ迷惑をかけない形でコミュニケーションを成立させる」ための道具なのである。
類は友を呼ぶ。ネットワークという世界の中では, 同じことに関心を持ち, 共鳴できる人々が自然に仲間を生成するのに好都合だ。そういう人々とのコミュニケーションが成立しうるときには, 「自分にとっての本来的な問題」を実感することができる。さらに, そのようなコミュニケーションが, デジタル化された文字や映像によって行われるため, 記録が残る。そして, それらを資料として保存・整理したり, さらに再編集することができる。ある意味での膨大な資料庫があると言ってもいいし, 「既存の知識を習得する」というだけでなく, 「再編成することによって, 知の組み換えを行い, 新しい知を生成する」ということに非常に適した環境があると言ってもいい。
しかも, 図書館のように, 「どこかのだれかが作ったもの」ではなく, 「自分自身で作れるもの」だということが, 大きく違うのである。

2.ネットワーク的数学観(?)

2-1.これまでの数学はネットワークに適していない

「ネットワークで数学の授業がすぐに変わるわけではない」と述べた。それは, 「数学をどういうものと考えるか」に大きく関わっている。たとえば, 「数学は既存の知識をきちんと理解し, 正しい答えをきちんと出せるようにするためのものだ」と考えるとする。このような姿のものとしての数学は, ネットワークとはほとんど縁のないものと言っていいだろう。「教科書をきちんと教える」それでいいではないか。
実際, 数学に限らず, 「基礎的な知識・技能の習得」という面は, 不可欠である。それをすべて否定することなどできない。「きちんと教えなければならないことは, 学校という, 特別な場所できちんと教える」必要性があるからこそ, 学校があるとも言えるだろう。 だが, すべてそれでいいだろうかというところに問題がある。

2-2.数学の面白さを我々/ 子どもたちは実感しているか

さきほど, 「問題を実感する」ということがあったが, 我々にとって, 数学は, そのように, 「自分の問題としての数学的問題を育てたり, 実感したりする対象」であるだろうか。また, 生徒たちにとって, そういう対象であるだろうか。
「数学嫌い」などがよく話題になるが, 「数学が好き」だからこそ, 大学の数学科まで進学してきたはずの学生達と接する中で, よく「これまで数学に関して一番面白かった経験を書きなさい」とか, 「数学が好きな理由を書きなさい」とアンケートを取る事がある。しかし, やはり, 「いい点が取れたから」というのが一番多い。「経験としての数学」は非常に希薄なのである。
「問題とは, 与えられたものを解くものだ」
おそらく, これは彼らにとっての共通認識であろう。それでいいのだろうか。もし, そういう面を打破する突破口が必要だということであれば, ネットワーク的な意味での数学作りを考える余地が生まれてくるのではないかと思う。

42-3.「正しい答えを作る」だけならコンピュータがやってくれる。「適切な問題を作る」ことは, 人間でないとできない

ところで, これまでの数学像を考えた場合, 「正しい答えを出す」ことが人間の仕事であり, それが面白いかどうかは別にして, とにかくそういう力を付けないことには, 科学技術を支えられる人材を生み出すことができないのだ, というような前提に立つとすれば, それはそれで妥当な方向と言えるのだろう。しかし, よく言われることであるが, 「正しい答えを出す」ことを人間がするという役割は, 急速に減りつつある。決まったやり方で決まったことを実行してくれるのは, コンピュータの仕事である。そのやり方を決めたり, 何が問題かを議論し, 問題を定式化し, 結果を吟味し, さらに次の方向の意思決定をする。そういうことが人間の仕事である。
「数学」と言うときに, 「正しい答えを出すしくみ」だけを指すべきなのか。それとも, 「問題を実感し, それを定式化するような探究のプロセス」も指すべきなのか。それによって, 考え方は大きく変わるのではないだろうか。

2-4.「正しい答えが一つ」でないような数学の場面をどう作るか

さて, もし後者のような考え方をするとしたら, 必然的に, 「正しい答えが一つ」でないような数学の場面をどのように生み出すかが重要になる。そして, そのような場面からどういう指導を行うかを吟味する中で, そこにどういう教育的価値を盛り込むのか。そして, 数学的内容として, あるいは, 数学的プロセスとして, 何があるのかを検討するところから, 教材研究やより組織的なカリキュラム研究が生まれると言っていい。
ところで, そういう授業は, 日頃していないだろうか。授業のすべてではないかもしれないが, 力のある先生は, かなりそういう面を配慮しながら「授業」を組み立てているはずだ。そして, 「一斉指導」という, 様々な個性が存在するからこそ生まれる様々な葛藤や議論を, 授業の柱として設定できるような試みをしているはずだ。
そういうことにもっと力点を置けば, 「ネットワーク的なコミュニケーション」にはどういう数学が適しているかが見えているはずなのである。

2-5.多様性と選択の時代

また, もう一つ別の要因がある。それは, 標語的に言うならば, 「多様性と選択の時代」であり, 「総合の時代」である。すでに, 中学校では, 「課題学習」や「選択学習」がある。意図がうまく反映されている学校もあれば, そうでない学校もあるかもしれないが, 少なくとも, これらの時間が設けられたことによって, 「教科書以外」の様々な数学の素材を探し, いろいろな人がいろいろな授業作りを始めたこと自体はたしかだと思う。
週5 日制完全実施に伴うカリキュラム改定では, 算数・数学の時間と内容の削減を生みつつある。多くの方が多大な懸念を抱いているにも関わらず, 避けられそうもない。しかし, もしわずかでも光があるとすれば, それと一緒に導入される総合や選択の流れである。課題学習や選択学習の中で「数学のよさ」をうまく引き出せるノウハウを獲得された先生方にとっては, そういう魅力をさらに大きく引き出して, 今までの授業ではできなかったものを生み出すための契機になりうるのかもしれない。あるいは, 「数学のための数学の時間」としてでなく, 「どういうところで数学がどううまく使われるのか」を実感できるような, 総合的な学習として成立させることができるのかもしれない。
そのような多様性と総合に対応可能なシステムを作るためには, 教育システム自体が, そして教員組織や研究組織の情報化が大きく進展していくことが不可欠だと思われる。

2-6.テクノロジーの利用

また, 詳しいことは, 次章に委ねるつもりだが, そのようなことに力点を置くためには, 「計算」等の労力や時間を軽減しないかぎりはできない。不可避的に, テクノロジー, 特にコンピュータの利用が必要になってくる。だが, コンピュータとは「目的を持って, 意図的に使う」ことが必要な存在である。スイッチを入れたらなんでもしてくれるという代物ではない。そういう意味でも, それらをどう活用すべきか等に関する情報インフラが不可欠なのである。

3.問題場面を作る道具としてのテクノロジー

3-1.「授業を演出する道具」としてのテクノロジー

コンピュータをはじめとするテクノロジーをどう位置づけるかに関しては, いろいろな見方があるはずだ。私は1989年にGeometric Constructor の開発を始めて以来, すでに8年にわたって,Geometric Constructorを使った教材研究や授業研究を行っているが, 私はGeometric Constructor をどう考えているかと言えば, 第一に, 「授業を演出する道具」であり, 第二に, 「自分の, そして誰かの数学的探究を変えてくれる道具」と考えている( 論理的な順番は逆かもしれないが) 。
うまく使えない典型は,
だと思う。私自身, そういうことを何回も経験してきた。
「答えを正確に出すための道具」としては, そういうのでもいい。しかし, それだけでは教育的でない。教育的であるためには, 「こういうことに焦点を当てた授業をしたい」という思いを実現し, 生徒が生き生きとした議論をしてくれるような, そういうための「道具」として使えることが不可欠ではないかと思う。

3-2.生徒の「多様性」を生み出すもの

このような, 「議論」が成立するためには, 「多様性」がなければならない。そして, そういう多様性こそ, 「正しい答えは一つしかない授業」を越えるための手がかりである。
そのような多様性は, 普段の授業の中ででも, また今までの教具を使うことでも生まれるきっかけはある。テクノロジーがなければ生まれないというわけではない。しかし, たとえば,Geometric Constructorと付き合う中で, 次のような点での「多様性」を生かしやすくなっているように思う。
これらは, 「授業」を構成する上でも重要であるが, 授業の中で「出尽くす」ものでもない。潜在的には, 実に多くの可能性がある中のいくつかだけが授業で出てくるというものも少なくない。それを生かすとどういう数学的展開がありうるのか等が豊富な素材も少なくない。そのような素材に関しては, ネットワークで議論をしたり, 様々な結果を公開・蓄積して検討することも十分に意義がある。

■関連するWeb 上の資料と参考文献■

講演時は, 下記の内容を参照して具体的な例で実演したが, ここでは割愛する。
3-3.先生 (授業) の「多様性」を生み出すもの また, これらの多様性は, 「それをどう生かすか」という授業の多様性を生む。それらは生徒の議論の対象ではなく, 先生方同士が議論するための絶好の対象である。しかも, 身近な中に, 同じことに関心を持つ人がいるとは限らないので, ネットワークや研究会, 公開講座等で議論するのに適した素材である。
また, 実際には, そのような授業は, 「発問」をどうするかが最も大きな鍵を握るが, それだけで授業ができるわけではない。実はそれを支える様々なノウハウがある。あるいは, どこに注目するかを支えている数学に対する見方がある。それらに関しても議論を進めて行くことによって, 奥の深い議論をすることができることがある。そういう意味でも, 「授業を演出する道具としてのテクノロジー」は, 我々にとって様々なきっかけを提供してくれる。

3-4.テクノロジー利用を進めるための教材・授業等の資料庫の必要性

コンピュータが学校に導入されてすでにかなりの年月が経過した。Geometric Constructor を含めた作図ツールも開発からすでに8 年以上が経過した。それなりの普及はしている。いくつかの授業書もある。しかし, 本格的に使っている教員の割合はまだまだ低い。
実は, 熱心な方々もいる。ある地域に集中しているのではなく, ほぼ同じような確率分布で全国に点在している。本格的に使っている人というのは, 自分なりに数学像もあり, 授業像もあり, そして, そういう授業のための道具として便利だと認識し, ソフトさえあれば, 自分なりの授業を組み立てることができる力を持っている人々だ。
だが, 逆に言えば, そういう力がある人でないと, 「ソフトとマニュアルだけ」から授業を構成することは難しいのかもしれない。つまり, さらに, それを使った授業やカリキュラム構成のための様々な「仕掛け」が必要なのである。その一つは, 教材集であり, 授業記録集であろう。そのような事情は, 他のソフト, 他のテクノロジーにも共通する。

4.私がGeometric Constructor に関連してネットワークでしていること/したいこと

4-1.「点在」している先生方と私

Geometric Constructor に関する研究協力は, 最初こそ附属学校だけだったが, ソフトを公開した時点から, すでにネットワーク的になった。ソフトに関心を持つ人, それを使いこなせる人の分布は, 多少の違いはあるにしても, 似たような確率で分布する。つまり, 「点在している先生方」と私とのネットワークである。
しかし, いつまで「1-1 」とは限らない。関心を持った先生が自分で研究してみたい, 仲間を作りたいと思ったときに, その地域の研究グループを形成し, いろいろなことを始めるケースもある。(たとえば, 川崎市総合教育センターでの長年の研究は, 97年の読売教育賞の受賞という形で社会的に認められた)
そのようなケースでは, 中核になる人とコミュニケーションを取る事によって, 間接的にそのグループ全体とコミュニケーションを取っている事になる。しかし, 別のグループ同士での研究交流とまではなかなかいきにくい。「点在している先生方(あるいは研究グループ) 」と私の別々のパイプがあちこちにあるという形になる。

4-2.「同じことの繰り返し」の労力の削減

『「点在している先生方(あるいは研究グループ) 」と私のパイプ』が別々ということは, 「同じことの繰り返し」を必要とする。たとえば, ソフトのコピーにしろ, マニュアルの印刷・製本にしろ, 各種の資料の印刷・製本にしろ, すべてそうである。
このような労力を, ネットワークは根本的に解消しつつある。こちらからたどれるいろいろなところから, ソフト・マニュアル・公開講座など, これまで公開してきたほとんどの資料を WWWで公開している。
「使いたかったら使ってね」というスタンスで, 公開しているだけだ。それによって, たしかに, データを作成したり,(少し) 編集する作業は必要だが, 「配布」に関する労力と時間はほとんど不要になった。私自身は, それによって浮いた時間を, 他の作業に回せる。
しかしそれだけではない。「調べたい」と思う人に対して, 「いつでも気軽に情報収集をしてもらうことができる環境」を作っていることになる。電話・FAX,手紙での情報交換と比べると, かなり安価でリアルタイムで, しかも相手の時間を拘束することなく自由に使える。

4-3.「点在」している先生方を生かし, 結びつける

ところで, こういう話を耳にして, 不思議に思っている人もいるかもしれない。「頼まれているわけでもなく, また金になるわけでもないのに, どうしてそんなことをするのだろう」と。たしかにそういう面もある。しかし, 単に「お人好し」でそういうことをしているわけではない。Geometric Constructor は, 数学的探究をするためのソフトである。そして, 授業をするためのソフトである。
開発に当たって, いくつかのテストケースを想定して設計している。しかし, それを実際に使ってみると, 最初に想定していた範囲を大きく越えて, いろいろな事例が見つかってくる。あるいは, 「こういう事例に使いたいのに使えない」という問題が見つかったりする。もちろん, 自分の中でもそういうことはするのだが, そういうことは, 「様々なユーザーが様々なところで, 様々なことを発見し, 気づいている」のだ。そして, そういう声を, 素直に聞くことが, 非常に有益なのである。
実際,Geometric Constructorというソフトは, いろいろな人の声に支えられてきた。そして, その声に応えようと修正を繰り返したり, いろいろな資料を作ってきたという面もある。
しかも, そういう人は, 「点在」している。さらに, 潜在的に, いろいろな人がいる可能性がある。そういう「潜在的な人々」を「顕在化」し, そして, そういう人たちがそういう道具を使って生み出す数学の世界を明らかにしようと思ったときに, 何より重要なのは, 「その気になったときに, 気楽にアクセスできるようにすること」であり, 「ふと思ったことなどを, うまく共有し, その人のよさを生かすこと」である。
しかも, そういう人の生かし方として, 私とのコミュニケーションのみでなく, そういう関心を持った人々のコミュニティを形成し, コミュニケーションを活性化することで, 様々な面白いものが生まれてくるチャンスを増やそうということなのである。

4-4.「仕掛け」を作るための道具としてのネットワーク

「Geometric Constructor 」というソフトは, 数学的探究のための道具であり, 授業のための道具であった。そして, それらに関わるいろいろなコミュニケーションが今までに電話・FAX,郵便などいろいろな方法であった。それらによるコミュニケーションをより円滑にし, よりインターラクティブにし, 情報化を進めて行くためにはどうしたらいいかというときの道具が, 実はネットワークである。
いや, それは答えにはなっていないかもしれない。ネットワークとは「線」だけである。電話線があるだけで, 人々の交流が円滑になるわけではない。ネットワークとは, そのような「仕掛け」を作るためのインフラであるという方が的確なのかもしれない。
そして, いろいろな人との情報化が円滑にいくためには, そのインフラの上に, さらに「仕掛け」を作る必要がある。たとえば,WWW(ホームページ) のサーバーを設置し, 情報発信をするということも, 一つの「仕掛け」である。
その他に, どのような「仕掛け」があるのかを, いくつか見ておこう。

(1).メーリングリスト

メールの一つの形態がメーリングリストである。原理を詳しく話すと長くなるので, 説明はしないが, 要するに, メールを使った会議室のようなものと言っていい。数学教育で代表的なものは, 山梨大学成田研究室で稼働している matheduである。約360 名が参加している。また, 私が最近始めたのは,Geometric Constructorに関するメーリングリストで, gc-ml である。そこでは, いろいろな質問や議論を行う。参加者にそれぞれのメールがすべて配送される。ある質問があったとき, 誰かがそれに返事をすれば, その返事も配送される。「あ, あの人が返事を書いたな」, 「まだ誰も返事を書かないのか」などが分かるわけだ。
通常, 我々は空間的な制約の他に, 時間的な制約がある。それぞれが違う仕事を抱えている。そういう中で, 「電話」というのは, 時間を拘束するコミュニケーション手段である。頻繁にかかってくる電話は仕事の邪魔でしかない。
これに対して, メールは「読みたいときに読む」。そして, 「書けるときに, 返事をかく」。そういう媒体である。電話は 1-1の媒体だから, 「繰り返し」が多い。しかし, メーリングリストでは, すべての記録がすべての人に配信されるので, 「今までの議論」がすべての人に分かる。発言しなくても, 見ているだけで, 耳学問になるわけだし, いろいろな共通認識を育てることができる。
1対1のメールは, 正直いってつらい。「その人にしか」伝達することができない。プライベートなメールであれば, もちろんその方がいいのだが, いろいろな人と共有した方がいいと思える情報は, 「オープンにして, いろいろな人にその経過等を見て頂き, 問題状況を共有したり, そのことに対するアイデアを提供していただいたりする方がずっといい。」
そういう意味で, いろいろな情報交換や共通認識を育てながら, 議論をしていくための「仕掛け」がメーリングリストなのである。

(2).FAQ(Frequently Asked Question)

また, よくある「仕掛け」として, 「FAQ 」というのがある。質問の多くは似たような内容のことが多い。そこで, 似たような質問は, 「まとめておいて, 質問する前に, まずそこで確認してね」というスタンスだ。Geometric Constructor では, まだあまりない。

(3).ネットワーク対応のGeometric Constructor / Win

今, 一番力を入れているのが, これである。Geometric Constructor はどういう学校でも使えることを優先してきたので, 今までは DOS版しか作らなかった。しかし, 諸般の事情もあって,97/10からWindows 版を開発している。テスト版はすでに公開している。(現在,ver.1.0.8である。)
「DOS でできることをWindows でできるようにする」というだけでも, 一応の意味はあるのだが, やはりそれではあまり意味がない。Windows 版を作るにあたって重視しているのは, 「ネットワーク対応」ということである。
現在, ネットワーク対応としては, 「簡易ブラウザで表示している WWWから,Geometric Constructorのデータをそのまま取り込める」という機能を持っている。
現在でも, いろいろな資料が WWWにある。教材例もあれば, 探究例もある。しかし, それを実際にGeometric Constructor で使ってみようと思ったときに, 別のパソコンで, 自分なりに作図をしなければならない。これは不便である。
上記の機能があることによって, たとえば,WWWで教材シートを作っておくとする。すると, そこに「ここをクリックしてデータを取り込んで○○を動かしてごらん」というリンクを書いておき, それをクリックすると, そのデータを取り込むことができるわけだ。しかも, たとえば, ある学校で利用しようと思った作ったものを,WWWサーバーに置いておきさえすれば, ネットワークに繋がっているどの学校でも, 同様に使うことができるのである。つまり, 「教材を作ったら, そのまま他の人にも使ってもらえるようにするための仕掛け」なのである。まだ, 具体的なデータは少ない。また, 私自身も作ろうとは思っているが, 一人でできる範囲には, 限界がある。そこに, いろいろな人が気楽に参加できるようにするための仕掛け作りでもあるわけだ。

5.さて, 「これからの人」はどこから始めたらいいだろう

5-1.まずは, メーリングリストを毎日「見る」ところから

学校に入る設備で, 「すべてのことができる」とは思わない方がいい。できないわけではないのだが, なんと言っても, 「端末数」が限られているはずだ。そして, 通常の学校での仕事の合間に使うということは, 時間的にも限られているはずだ。関心がある人が何人もいれば, 自分で専有できるわけではない。
そういう意味では, 「メール中心」という路線が, 一番無難であり, また長続きする。 メールは, 最低一日一回は見ることが大切だ。そうでないと, タイミングを逸してしまうし, 発信してくれた人に失礼になる。しかし, 個人宛のメールというものは, そんなに頻繁に来るわけではない。しかも, メールを始めたときからそう来るはずはない。
そこで, 習慣づけも兼ねて( と言うと, 怒られるかもしれないが),メーリングリストに参加するのがいいと思う。いろいろな人がいろいろな意見を提供したり, それに対する意見が出される様子を, まず眺めてみるのだ。
もし, 疑問や意見があれば, 思い切って, 一度メールを出してみるといい。すると, 多分, 反応が帰ってくる。そういうところから, ネットワーク生活が始まるし, そういう中から, 共感を持てる「仲間」が生まれてくる。

5-2.WWW は必要に応じて

私の場合,WWWに書く時間は多いが, 見る時間はそれほど多くない。無目的にブラブラとネットサーフィンというのをたまにするのも面白いが, 日常的にするには退屈だ。
「ここのこういう情報がおもしろい」という情報は, メーリングリストからやってくることが多い。「どれどれ」と見るというのが, 私のよくあるパターンだ。だから, メール8 割,WWW2 割というところだろうか。慣れてくると, そんなものだと思う。

5-3.まずは, 先生同士のコミュニケーションを始めよう

学校へのインターネットの導入は, 「教育のための道具」であり, 「授業としてどう使うか」ということを意識して導入されていると言っていいだろう。しかし, 現在の状況では, 算数・数学の授業で, 直接使うような使い方はまだまだ少ないと言っていいと思う。たとえば, 算数・数学に関する面白い問題を掲載しているページもいくつかある。それらのサイトにアクセスし, メールを出すという方法もないわけではないが, それができるほどの端末はない。また, 一斉にたくさんの生徒からのメールがそのサイトに押し寄せても, 処理しきれまい。さらに, そういう趣旨の使い方であれば, 別に生徒全員が端末の前に座る必要はない。「こういう面白い問題があった」と, 先生がそのページを印刷し, 配布して授業で取り組むという使い方だってありうる。
むしろ, 重要なのは, 「向こう側に人間がいる」のを実感することである。そして, 数学に関するコミュニケーションを実際に体験してみて, 「正しい答えを出す」こと以外に, どういうことがあるのかを実感することである。

5-4.「プロデューサー」になってみる。

最近手にした「先生と子どもたちのためのパソコン活用術(PC fan 別冊, 毎日コミュニケーションズ) 」の中で, 興味深い表現があった。「先生はプロデューサー」という言葉と, 「先生は教育起業家」という言葉である。
別に, パソコンを使わない授業であっても, いい授業をやりたいと思えば, このような側面はかなりある。
しかし一方で, そのようなプロデュースの対象は, 多くの場合, 学級あるいは学校である。他の学校との共同企画を考えても, 「日常的な交流」はなかなか難しい。だが, そういう「今までできなかった交流」をその気になったら十分可能にするのがネットワークなのである。アイデアが浮かんだら, メーリングリスト等で提案してみる。あるいは, 小規模でいいから始めてみる。そして, 「ここでこういう試みをしていますが, どうでしょう」と意見を求めてみる。すると, そのアイデアさえよければ, 自然に賛同者が生まれてくるはずだ。

5-5.必要に応じて, 適切な「仕掛け」を作って行く

小規模なことであれば, ほとんど手作業で十分だ。WWW のデータと言っても, プロバイダの無料の情報発信で十分な範囲で収まってしまう。メールの返事も一人でやってもいい。しかし, 参加する人数が増えてくれば, それに応じて, 適切な「仕掛け」を作る必要がある。( たとえば, メーリングリスト作り) 。素材がかなり集まってきたら, それらを再編成するような仕事も必要かもしれない。WWW のみでなく, 本としてまとめるような機会もありうるかもしれない。ネットワークで重要なのは, 「最初から, その気がある人はアクセスできる」形で「本格的に始められる」ことである。「とにかくやってみる」ことができるし, そのための資本も「名前」もなにも要らず, アイデアさえあればいいということである。繰り返すが, そのアイデアさえよければ, いろいろな人がそれを育ててくれるのだ。

5-6.学会活動や教育プロジェクトでのネットワーク活用

上記は「個人」としての立場でのものであるが, 学会や教育プロジェクトのように, はじめから「仕掛け」を意図しているものの場合, 次第にネットワークも活用するようになっていくだろう。伝統的な組織での動きは遅々としたものではあるが, しかし, 確実に変わりつつあるのも事実だ。たとえば, 日本数学教育学会などでも, 本格的なホームページの作成への動きが始まっている。( 論文発表会に関する試みは, すでに3 年前から始まっている)
すでに,NCTM などでは, かなり充実したWWW が実現しているが, 日本でも数年後には, かなり様子は変わってくると思われる。

5-7.教育の情報化

それらによって, 一体我々はどういうところにたどり着こうとしているのだろうか。一言で言えば, 教育の情報化ということだと思う。そして, それは別の言葉で言えば, 「教師を生かす」ということだと思う。教師はすべて同じではない。それぞれが個性を持っている。一人の教師が様々な個性軍団である目の前の子どもに向かおうとするとき, すべての子どもにうまく対応できるとは限らない。しかし, 教師の側も人的ネットワークをうまく形成し, そしてうまく生かすことができれば, 今までとは違った教育を実現できる可能性もあるように思う。
しかし, それが具体的にどのような姿のものなのかはまだよく分からない。そして, そのような教育の情報化は, 少なくとも, 現在の我々の行動様式にはあまり合っていないものであることもまた事実である。さらに言えば, ネットワーク的な価値観が, これまでの普通の価値観とはかなり異なった側面を持っているのも事実である。「ただで便利な道具」としてネットワークを使えば, それを管理したり, 様々な「仕掛け」を工夫している人々はあっというまに破綻する。そうならないようにするためには, 自分達自身でシステムを管理したり, 構築していく意志とノウハウを持たなければならない。同じようなことに関心を持つ小集団とか, 同一の目的の下で働いている企業集団などの中では, そのような情報化は意味があり, また非常に効果的であることは, ここ数年の中で明らかになってきた。しかし, 同様のことが, 教育現場でも可能かどうか, またそういうことをするためのシステムとして, 現在学校に導入されようとしているシステムで十分なのかどうかなど, まだまだ未知数のことが多い。そして何よりも, そういう教育の情報化そのものを, 当事者である先生方は, どう捉え, どう行動するかにかかっていると言えるだろう。